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「組織開発」的な文脈に対する問題提起

リスキリングやキャリア自律、ミッション・ビジョン・バリューの策定やパーパスなど、人材開発や組織開発の方法論というものは、時代の変化とともに、様々な、文字通りありとあらゆるものが考案され、実行されてきた。それは、組織の生産性を高めなければ事業が拡大しない、生き残っていけない、という危機感によるものである。

しかし、ちょっとここで、立ち止まって考えてみて欲しい。
本当に、そうした人材開発なり組織開発なりが、説明可能な成果をあげてきただろうか?

筆者にも身に覚えがある。ベンチャー企業でマネージャ職についていた頃の話だ。組織の急拡大は、様々な「乱れ」を招く。乱れたものを整え直すため、目標管理シートを整備し、会社のミッション・ビジョン・バリューを再定義する。取締役会メンバーと各部門のマネージャが合宿までして、会社のタグラインを決めなおす。
その準備を、やっている間は高揚感と未来への希望を感じられる。しかし、いざ実際にそれをリリースし、施行したあと、組織はどうなっただろうか。

多少は何かが改善したかもしれないが、やってきたのは「新たなる惰性的な日常」だった。確かに混乱の一部は収まったし、問題の一部は解決したが、それは、カーペットのシワを別の場所に移しただけのことで、あらゆる問題が解決した、なんてことは、お世辞にも言えなかった。

各種の組織開発の試みは、社会課題を解決してきたか

昨今、働くことに関する多くの社会課題が取り沙汰されている。曰く、

  • 上がらない賃金の問題
  • やりがい搾取、あるいは勤労意欲や学習意欲が向上しない問題
  • パワハラ、セクハラ等のハラスメント
  • ジェンダーや国籍、宗教、能力等の多様性を適切に扱うにはどうするか
  • メンタル疾患に関する問題
  • 効率が悪く、生産性が低い業務のあり方をなかなか変えられない問題
  • 古い価値観を脱却したくても、なかなかできない問題
  • ネガティブな理由による離職率の高止まり
  • 労働力不足、採用難
  • 「働かない中高年」と「言うことを聞かない若年層」という世代間の疑心暗鬼
  • 今後のデジタル技術革新や社会情勢の変化により、自分の仕事が今後失われるのではないかという不安
  • 新規事業を何度も試みても、継続せず、会社全体に停滞感や諦めムードが覆われている
  • 無駄な情報システムの入れ替えで、かえって業務が煩雑になり、手間が増えてしまう

まだまだあるかもしれないが、あんまりたくさん並べても、暗い気持ちになるので、一旦、このぐらいで止めておこう。そう、世の中には、働くことについての問題が、いくらでも、数え切れないぐらいに存在している。

もちろん、世の中には、もっと有能で、良心的な組織開発者もおられることだろう。
しかし、こうした社会課題は、会社組織の運営手法の問題を反映しているのは論を待たない。組織開発手段に、限界があることも、明らかではないだろうか。

こうした問題に対して、世間は常に「一発逆転の方法論」に期待しては、失望する、ということを繰り返してきた。
「◯◯トランスフォーメーション」というやつもまた同様である。改革しよう、いやいや変革だ、ガラガラポンをしてしまえば、その先にはバラ色の未来が待っているんだぞ、乗り遅れるな!

そのような笛の音色から耳を塞ぐのは難しい。これまで、なんど裏切られてきたとしても、次に試すものこそが、正解かもしれないからだ。そして、競合他社や他の業界には情報強者が先行利益を得ているかもしれない。

いま、ここで断言すべきは、そうした華々しい組織開発手法に、「どんな人間にも組織にも通用する、これこそが絶対に効く最終兵器」なんてものは、ひとつもなかった、ということである。簡単な推論である。そんな結構なものがあれば、それを導入した企業はバラ色の経営をやっているはずで、それはよその企業にもやすやすと伝播するはずで、結果として、世の中とっくにバラ色になっているはずなのだ。

真っ当な経営者は、そんなことは、言われなくても、わかっている

まぁ、バラ色になる手段なんか、そもそも初めから、ないんだということは、ある程度の経験を有する経営者であれば、経験的にわかっている、当たり前の話である。

だから、合理的な経営者は、組織開発の取り組みを後回しにする。それよりも重要なのは、市場開拓であり、顧客開拓である。案件をとっては回し、とっては回し、ヒトモノカネを回転させ続けなければ、その時点で会社は終わってしまう。

諦めたら、そこで試合終了である、というのは、バスケの話ではなく、会社の話なのである。

たしかにそれは真実である。しかし、その「現実」の「圧」に押し負けて、単なる仕事の回転装置になってしまうと、やっぱり直面してしまうのは「確かに、食べていくことはできるかもしれないが、それこそやり甲斐というもののない、ただひたすらに、ダルい日常」である。

食うために働いているのか、働くために食っているのか、わからなくなる。それはそれで、地獄である。

組織開発施策に万策尽きた経営者に残された最後の方法は「プロジェクト教育」である

本稿の筆者である後藤は、「プロジェクト教育」こそが、残された唯一の希望であると、考えている。

プロジェクト教育といっても、IT屋さんの言う「プロマネ」ではない。一部に似た要素も含むが、もっと広く、もっと深いものである。そもそも、筆者の言うプロジェクトとはIT開発やプラント開発、商品開発や事業開発等と名がつくような「狭い意味のプロジェクト」に限らない。

会社の内外で直面する、ありとあらゆる業務のなかで、本人にとって、未知の要素を多く含むもの。それが、本稿における「プロジェクト」である。やまとことばでいえば「とりくみ」とか「こころみ」と呼ぶべきようなものである。

では、筆者の掲げる「プロジェクト教育」とは、何を指しているのか。
それは、以下の3つの要素を促進するための教育である。

①「たとえ初めてのことでも、不安に負けずに、前に引っ張る力」
②「取引の相手に対して、約束を果たすために、着実に進める力」
③「曖昧な状況でも、自分なりに問題を設定し、工夫をするための、考える力」

①「たとえ初めてのことでも、不安に負けずに、前に引っ張る力」

とかく失敗が嫌われて、成功ばかりが期待される世の中である。昨今、ありとあらゆるメディアやコンサルティングの現場で「必ず成功する方法」「失敗を避ける要点」ばかりが教えられている。そうした発想は、実に貧しい価値観である、と言わざるを得ない。

確かに、世の中、部分的な業務においては、その成功のための因果関係やプロセスが明らかにされている。マニュアル通りに、教科書通りに振る舞えば、必ずゴールを迎えられる業務というものも、多い。しかしそれは、本稿でいう「プロジェクト」の対義語である「ルーチンワーク」の世界である。
ルーチンワークは、確かに確実な投資対効果を約束してくれるが、必ずそれは陳腐化し、価値が減衰していくものである。

真っ当な経営者は、経験的に、そのことを、よく知っている。だから必ず、新規事業の種を探し続けている。新しいことを投入し続けなければ、いつかどこかで行き詰まってしまう。それを避けるためには、たとえ100の失敗を乗り越えてでも、新規事業を実らせなければならない。しかしそれは、当たり前だが、明日の成功は、誰も約束してくれない。かけたお金が、まるまる、損失になってしまうことも、あり得る。あり得るどころか、それが当たり前だ。

「会社にとっての新規事業」だと、少し話が大きくなりすぎるかもしれないから、もう少し近距離なもので表現するとすれば、「新人営業担当者にとっての、初めてのプレゼン」といったものでもいい。

初めて、というものは、本当に、不安なものである。なにをどうすれば、なにが起きるかわからない。

しかし、その不安を乗り越えなければ、新しい自分と出会うことはできない。

どうすれば、不安を乗り越え、挑戦することができるか。それは「学び方を学ぶ」ということである。
つまり、短期的な失敗を、長期的な肥やしに変換していく、ということである。

筆者にとって、「プロジェクト教育」の最大のポイントは、この一点にこそ、ある。

②「取引の相手に対して、約束を果たすために、着実に進める力」

次に来るのが、いわゆる「マネジメント」の話である。どんな仕事も、それは「取引」である。失敗を前向きに捉えるというモメントは、基本的には、己の中に内在するべきもので、これを他人に対して向けてはいけない。

当たり前だ。

取引とは、「いついつまでに、これこれの成果物を、いくらの対価でお渡ししますね」という約束である。この約束のなかに「未知の要素」が多く含まれていたら、それはまごうかたなきプロジェクトであるわけだが、不安に対する勇気が勝ちすぎて失敗を許容してしまい、結果として約束を果たせなかったら、それは「嘘つき」「詐欺」ということになってしまう。

取引に対する虚偽は、社会では、決して許されるべきものではない。頑張ったから許されるものでもないし、一生懸命やったから褒められる、というものでもない。結果が全てだ。結果が出なければ、対価とは交換されない。

約束を果たす方法論として「プロジェクトマネジメント」というものがある。これを学ばずに仕事をしている危なっかしい人が、世の中には、あまりに多いのである。あるいは、非常にローカルな(たとえばIT業界の、特定の技術領域でしか通用しないような)方法論を、いつでもどこでも通用する万能薬だと勘違いして、嬉々としてまったく別の世界で振り回すような、迷惑な人が多いのである。

未知を含む業務において、どうすれば、取引相手に対して誠実な価値提供ができるのか。
それは「約束の仕方と、果たし方を学ぶ」ということである。

③「曖昧な状況でも、自分なりに問題を設定し、工夫をするための、考える力」

根本的にいって、「不安に負けずに引っ張る力」と「約束を果たすために、着実に進める力」は、矛盾した関係にある。
これらは、リーディングとマネジング、と言い換えてもよい。

この矛盾を乗り越えるために、最後の最後に必要になるのが「考える力」である。

たとえば文化人類学者はそれを「ブリコラージュ」と呼ぶ。つまり、自分が利用できる資源のなかから、使えるものを見出し、パッチワークでもなんでもよいから、機能する道具に仕立て上げて、目的を達成する、ということである。
プロジェクトとは、常に有限設計である。利用可能な資源は、有限の人間であり、有限の時間であり、有限の知識であり、有限のお金である。しかし、人間の欲望は無限集合である。あれがしたい、これも欲しい。満たされたら、その次がまた、欲しくなる。

無限の要望を、有限の資源によって満たすことは、不可能である。

だからこそ、本当にやりたいことはなにか、獲得すべきものはなにかを、限定しなければならない。自分にとっての、そしてその場にとっての優先順位を、理解しなければならない。トレードオフがあったら、それを乗り越えるための、創造的な解決策を、ひねり出さなければならない。
極言すると、それは「問題を捉え直す」ということである。それが、プロジェクトの思考力における究極のちからである。

ある数学者は「正しく問題を設定できれば、それは解けたも同然である」といった。この命題は、比喩ではない。人間の課題解決における、等身大のリアルである。

「プロジェクト教育」が、組織課題や社会課題への切り札であるといえる理由

最後に、この3つの「プロジェクトを前に進める力」が、「企業組織における業務課題」や「働くことに関する社会課題」の解消に、どのように役立つかを述べて、本稿を締めくくりたい。

まずは、賃金が上がらないとか、給与が自分の働きに対して見合わない、やりがい搾取と感じる、という「お金」の問題について。

お金の問題については「プロジェクトを前に進める力」は、成果を正しく対価と交換する技法として役立つ。言い換えれば、これは「安売りしない方法」なのである。企業間取引においても、企業の内部における雇用者、被雇用者の関係においても、安売りはよくない。なにが良くないのかって、精神衛生上、よくない。
では、なぜ、人は、企業は、つい、安売りをしてしまうのか。「買ってもらえないかもしれない不安」のせいである。「プロジェクトを前に進める力」を身につけるということは「適切な業務と対価を、相手といっしょになって、目線合わせする」ことにつながる。

次に、生産性や効率性の問題について。
筆者に言わせれば、非効率な組織とはプロジェクトリテラシーの欠如の結果、生じたものにほかならない。現代において、より深刻なのは、組織的なプロジェクトリテラシーの問題である。個人レベルではリテラシーが高い人がいたとしても、組織的には非常にお粗末である、ということは、よくある。個人が組織を変えることは、難しい。
組織は常に、プロジェクトリテラシーの向上に努めなければならない。それは自分たちの持つ「意思疎通のプロトコル」を、たえず改善し続ける、ということである。

最後に、ハラスメントや世代間、ポジション間の相互不信などの、「心」の問題について。
働くことで、心が満たされないのは、自分の貢献と対価の間に、ギャップを感じていて、納得ができないからである。自分が他者から必要とされる、有用な人間であると感じられることは、心の健康にとって致命的に必須である。
それを感じるために何が必要か。それは、小さなことでもいいから、相手のために、あるいは相手と一緒に、創造的な仕事をする、ということしかないのだ。

結語としてのメッセージ

こうした諸問題を解決するために、プロジェクト進行支援家を名乗る筆者が提供できること、提供したいものが、「プロジェクト・デザイン・キャンプ」である。あなたの組織の、あるいは組織に属する個人個人の、プロジェクトを前に進める力を伸ばしていくことは、必ずあなたの事業や人生にとって、良きものをもたらすはずである。あらゆる企業規模、職種、階層に向けて、なんとかこういうことを、理解してもらえるように苦心惨憺しながら作ってきたコンテンツである。口はばったいが、それなりにご好評もいただいてきた。

活用いただいて、決して損はない。

ぜひとも一度、どのような中身かを見て欲しい。

そして、問い合わせをしてみてほしい。